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新卒1年目から5年間過ごした”ふるさと”を今日離れます。

約5年前の2016年6月。慣れないスーツを来て実家から品川のオフィスに通っていたある日の山手線、半ばゲリラ的に一人暮らしを決意したのを覚えている。家族が大好きで、ついつい甘えてしまう自分の性格も理解していたのもあり、「社会人1年目」という節目で強引にでも大人にならなければと思っていたのかもしれない。そんな私が選んだ場所が「大井町」。仕事仲間と飲み明け暮れた日も、仕事で落ち込んで涙を流した日も、家族に会いたくて寂しくて心細かった日も。色々な私を見守ってくれた「大井町」を離れます。

社会人1年目、会社から近ければなんでもよかった

とにかく必死だった。イケてる先輩みたいになりたい。同期に負けたくないとメラメラしていた記憶しかない。家族にはあまり心配をかけたくなくて、私から弱音を吐くような連絡はしないようにしていたけど、たまに「元気?」とLINEがくるとその画面を見ながらよく家で泣いていた。自分から連絡をする時は「家具を新調したくって、一緒に運んでくれない?」など何かしらの理由をつけて、連絡していた気がする。

両親と別れるときは毎回年甲斐もなくとっても寂しくて、「じゃあね」と一言告げて、車が出発するのを見送ることができず、足早にその場を去っていた。

そんな1年目は大井町での思い出がほとんどない。朝早く家を出て夜遅くまで仕事して。土日は空気が抜けた風船かのようにヘニャヘニャになって家で寝ていた。会社にいる時間が長すぎて、光熱費もほぼ基本料金。

唯一思い出に残っているのは、同期との家飲み。1年目でお金があまりなかった私たちは良く誰かの家で飲んでいた。品川がオフィスだったこともあり、大井町付近に住んでいる友人はかなり多く誰かが「飲みたい」というと1時間後には集合できてしまう。(旦那であるたいちゃんも大井町住人だった)

家の前の公園で缶ビールを片手に線香花火をしながら、今仕事で悩んでいること、これから自分が成し遂げたいこと。時間を忘れて話したあの日。慣れない環境の中、彼らと過ごした時間は私の”寂しさ”を紛らわしてくれた。

社会人2年目、アクセスの良さに気付き都心にでまくる

品川区の回しものと思われそうだが、大井町はバツグンにアクセスが良い。新宿までは16分、お台場まで20分、新橋まで12分、二子玉川までも17分、羽田空港だって20分でいけてしまう。仕事に少し余裕が出てきた私はとにかく都心でよく遊んでいた気がする。

2年目は大学時代の友達がよく家に遊びに来ていた。新橋や恵比寿で飲み明かし、終電を逃した友達に「うちに泊まりに来なよ」と言うのがお決まりコース。便の良さが故、週に1回は友達が家に泊まりに来ていた。いつ友達が泊まりに来てもいいように、私の家はいつも比較的綺麗だったし、予備のパジャマもたくさんあった。ロフトがついていることから天井が高いのが気に入っていて遊びに来た友達にはよく自慢してたっけ。

大学生まで実家暮らしだった私にとっては、朝まで語り合ったり、テレビを見ながら友達とくだらない話をしたり、友達とこんな風に密に時間を過ごすこと自体がとても新鮮だった。外のお店にいるとつい気を張ってしまう私も、家にいると流石に気が抜けてリラックスしてしまう。この時期に多くの時間を過ごした友達とは、より深い関係性を作ることができた。
(写真を振り返って数えてみたら50人近い友達が私の家に来ていた!民宿か?笑)

遊び呆けていたわけではない。仕事も楽しくて夢中になっていた。繁忙期には床いっぱいにメモをぶちまけて深夜まで提案書を作っていたのも今となってはいい思い出である。

そんな私、大井町に住んで2年、初めて「ご近所さん」ができた。(会社の仲間で家が近くて仲の良いご近所さんいたがここで言うのはそうではなく、大井町に住んだからこそ出会えた人のことをさす。)

それは、近くの薬局のおばさんだ。

社会人2年目の頃の私はとにかく無茶をした。先程も話したように、仕事も楽しくて睡眠時間を惜しんで仕事をしていたし、心に余裕があったからか、友達と夜中まで遊んだり、趣味のダンスも頻繁に通ったり、やすむことを知らなかった。そんな毎日を「武勇伝」かのように語っていた私だったが、当然体には疲れが残る。

ヘトヘトになって栄養ドリンクを買いに行くといつも薬局のおばさんがコスパが良いドリンクを教えてくれた。化粧品の試供品が入ると「内緒ね」とどさっと袋に入れてくれた。夜遅く急いで薬局に駆け込んでビールを買うと「最近遅いのね〜」と労いの声をかけてくれた。

最初はあまりにもフランクな対応にびっくりしたが、私にとっては安心できる場所だった。よく、母や祖母が店員さんとフランクに話をしているのを見て驚いていたけど、その気持ちがやっとわかった。

このおばさんと出会った時から、大井町を「ふるさと」として認識し始めていたかもしれない。

社会人3年目、大井町に行きつけのお店ができる

大井町を「ふるさと」として感じ始めた私、ついに大井町の飲み屋街の魅力に気がつく。大井町駅前には東小路飲食店街という路地裏飲み屋街がある。特に立ち飲み屋が多く、私が立ち飲みにハマったのは間違いなくこの時期からだ。

1500円でお腹いっぱいに酔っぱらえる立ち飲み中華屋「臚雷亭」、大分料理が美味しい「豊後屋」、一見入りにくい見た目だが抜群に美味しい「肉のまえかわ」、店員さんの元気が良くてついついメガジョッキを頼んでしまう「味の磯平」、うずらが美味しい「焼き鳥晋ちゃん」。

お気に入りのお店は数え切れないほどある。その中でも忘れられない出会いをしたお店が「大井町ハイボール」。

ふらっと入ったお店だったが、店長だけでなく常連さんの気さくさに驚いた。最近仕事で大変なこと、恋愛で悩んでること。初めましてなのに、いやだからこそなんでも話せてしまう雰囲気がそこにはあった。全く知らない人とお酒を楽しんでいることに大人を感じ、そんな自分に酔いしれていた気がする。

薬局のおばさんも然り、大井町に住んでから人への壁が薄くなったきがする。一人暮らしという寂しい環境の私にとって、人とのふれあいは今まで以上に特別なものだった。

ただ、会社が近ければそれで良いと思って住み始めた大井町だったが、こうしてだんだんと愛着がわき始めていた。

社会人4年目、大井町に人を勧誘する

大井町という場所を愛してる!と声を大にして言うようになったのはこの頃から。会社の先輩であるとしさんが大井町のディープなお店に連れて行ってくれるようになってから居心地の良さがさらに増した。

この頃から、キャリアをどうしていこうとか、病気と体質の間みたいなものとどう向き合っていくかとか、悩み考えることが多かった。
加えて、仕事でもまあまあ脂が乗ってきて責任感ある仕事も任せてもらうようになったこともあり、自分ひとりで抱えることのできない小さなモヤモヤがずっと体の中に潜んでいた。

そんな中、歩いて10分15分の距離に信頼できる先輩がいることはわたしにとって大きな心の支えだった。会って相談をするかといったらそうではなくて、おいしいお酒飲んでカラオケしてるだけだが、その時間がわたしにとっては大きな支えだった。

そんな素敵な先輩がいるということもあり、私は周りの人に大井町に住むことを勧めまくった。結果、直属の後輩が何人か本当に引っ越してしまったんだから恐ろしい。そんな後輩も含め、年齢も職種もバラバラなご近所会ができた。

「今日飲みいけますか?」
「次の土日、近所の祭りがあるらしいです」
「パン余ったんでいる人いますか?」


はじめて自分で作ったご近所だった。自分の近くに、何かあれば助けてくれる存在がいること。それは思った以上に尊い存在だった。

この頃から、わたしは両親と別れるとき、車が見えなくなるまで手をふって見送れるようになっていた。一人で暮らしてやっと、自立できたのはこの頃からかもしれない。

社会人5年目、大井町を離れる

今年、わたしは結婚し、そして転職した。世の中も、私自身も大きく変化したこの1年の締めくくりが、大井町から離れる事だった。

大井町が嫌いになったからではない。リモートワークメインに変わったこともあり、二人で十分に仕事できる空間が必要になったことが大きな理由だ。このご時世柄、ご近所さんと最後にパーティすることも、行きつけだったお店にいくことも十分にできなかったのが少し悔しいが、仕方がない。

大井町最終日、薬局のおばさんのところに買い物に行った。レジには多くの人が並んでいたので感謝の気持ちと大井町を去ることを伝えられなかったのも心残りだ。そんなおばさんはいつもと変わらず、商品をレジ袋につめるときにこっそり試供品をくれた。
私は目を潤ませながら、気がついたらお店に向かって一礼をしていた。5年間、本当にありがとう。ここは、今までもこれからも私にとってずっと特別な薬局だ。

土地を愛し、時を愛す

大井町という場所が好きになったことは、すなわち大井町で過ごした5年間の時間を肯定することにつながった。

社会にはじめて出て、右も左もわからずピリピリしていた22歳のOLは、5年経った今、1人で最低限の生活ができるようになり、人のあたたかみを感じられるようになった。ここまで成長させてくれた大井町を、私は今後、「ふるさと」と呼ぶと思う。

最後に。引越しで大きな棚を処分するとき、サプライズがあった。

これは母の仕業だ。引越の時にひょんな遊び心でこんなメッセージを残していたらしい。

後から聞いたのだが、私が一人暮らしをしてからすぐは、空っぽになった実家の私の部屋を見て、寂しさと心配な気持ちが溢れて涙を流していたという。仕事で余裕が無くなっていたことも、寂しさを紛らわすためにわざと強がっていたこともきっと母はお見通しだったから、さぞかし心配だったと思う。その時の母の気持ちを思うと、胸が熱くなり思わず涙が出た。

一人暮らしをしたことは、自分が自立したタイミングであるとともに、親への感謝を改めて強く感じたタイミングでもあった。あの時、心配な中でも快く私を送り出してくれた両親に感謝をしたい。

実を言うと今は家探し中だ。その間の期間限定で、私の実家にたいちゃんと部屋を間借りしている。いわゆる磯野家のサザエさん・マスオさん状態。予想だにしていなかった二度目の両親との同居はなんだか新鮮だ。

これから新たな、いや真のふるさと探しを開始する。素敵なふるさとに出会えますように。

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